大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成3年(行ケ)8号 判決

原告 ルセル ユクラフ

右代表者 ユベール フリテル

右訴訟代理人弁理士 倉内基弘

同 風間弘志

右訴訟復代理人弁理士 川北喜十郎

被告 特許庁長官 深沢亘

右指定代理人通商産業技官 金谷宥

〈ほか三名〉

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

この判決に対する上告のための附加期間を、九〇日と定める。

事実

第一当事者が求める裁判

一  原告

「特許庁が昭和六一年審判第一九九三四号事件について平成二年八月二日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

二  被告

主文第一、二項と同旨の判決

第二原告の請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和五四年一月三一日、名称を「光学活性置換ベンジルアルコール及びその製造法」とする発明(後に、「光学活性置換ベンジルアルコール」と補正。以下、「本願発明」という。)について、一九七八年一月三一日フランス国においてした特許出願に基づく優先権を主張して特許出願(昭和五四年特許願第九二七四号)をしたが、昭和六一年六月一二日拒絶査定がなされたので、同年一〇月六日査定不服の審判を請求し、昭和六一年審判第一九九三四号事件として審理された結果、昭和六三年五月二七日特許出願公告(昭和六三年特許出願公告第二六一〇四号)されたが、特許異議の申立てがあり、平成二年八月二日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決がなされ、その謄本は同年九月一二日原告に送達された。

なお、原告のための出訴期間として九〇日が附加されている。

二  本願発明の要旨

次式Ⅰ

の(s)α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコール

三  審決の理由の要点

1  本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

2  これに対し、昭和四九年特許出願公開第四七五三一号公報(以下、「引用例」という。)の第一八頁左下欄第八行以下の実施例20のb(同頁右下欄第三行ないし第一三行)には、3-フェノキシベンズアルデヒドとシアン化カリウムを反応させて得た(±)-(α-シアノ)-(3-フェノキシ)-ベンジルアルコールが、収量及びn(屈折率)とともに記載され、さらに、該生成物の構造がNMRによって確認されたことが記載されている。

3  そこで本願発明の化合物と引用例記載の化合物を対比すると、引用例記載の(α-シアノ)-(3-フェノキシ)-ベンジルアルコールは、表記を異にするが、α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールと同一のものである。したがって、本願発明の化合物と引用例記載の化合物は、光学活性の点において、本願発明の化合物がS、すなわち絶対配置がSのものであるのに対し、引用例記載の化合物が±、すなわちラセミ体のものである点において一応相違する。

しかしながら、α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールが不斉炭素原子を一個有するものであって、一対の光学活性体が存在することは化学常識であるところ、引用例記載の化合物はα-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールのラセミ体であるから、この一対の光学活性体から成ることは明らかである。そして、本願発明の化合物は、絶対配置がSであるものであるが、いずれにせよα-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールの一対の光学活性体の一種類であるから、本願発明の化合物が引用例記載の化合物中に存在することも明らかである。

してみると、引用例には、本願発明の化合物が開示されているというべきである。

4  したがって、本願発明は、引用例記載の発明と認められるので、特許法第二九条第一項第三号の規定に該当し、特許を受けることができない。

四  審決の取消事由

本願発明の化合物が引用例記載の化合物の中に存在することは認める。しかしながら、審決は、特許法第二九条第一項第三号の規定の趣旨を誤解した結果、本願発明の新規性を誤って否定したものであって、違法であるから、取り消されるべきである。すなわち、

特許法第二九条第一項第三号は、既に公にされている技術的思想は特許を受けることができないという趣旨の規定であるが、技術的思想というからには、当業者が容易にその実施をすることができるものでなければならない。したがって、右規定にいう「刊行物に記載された」とは、当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されている必要があり、物の発明についていえば、少なくとも、その物を製造する手掛りが得られる程度の記載を要するというべきである。

ところで、引用例には、(S)体アルコール(以下「Sアルコール」という。)とその光学異性体である(R)体アルコール(以下「Rアルコール」という。)によって構成される、ラセミ体である(RS)体アルコール(以下「RSアルコール」という。)が記載されている。しかしながら、RSアルコールに含まれているSアルコールは、常にRアルコールと共存するものであって、単独で存在するのではない。しかるに、引用例には、単独のSアルコールの製造法はもとより、RSアルコールをラセミ分割することすら記載されていないのみならず、Sアルコール単独の化学式又は物性値すら記載されていない(本件出願当時の技術水準では、RSアルコールは分割し得ない純粋物であり、その一成分であるSアルコールを単独で取り出すことはできないと考えられていたのである。)。したがって、引用例には、本願発明が当業者が容易にその実施をすることができる程度に(少なくとも、本願発明のものを製造する手掛りが得られる程度に)記載されているということはできない。

また、当業者は、引用例の記載に基づいて、ラセミ体としてのRSアルコールの有用性を理解することはできても、単独のSアルコールの有用性を理解することはできない。

これに対し、本願発明は新規な合成法によってSアルコールを単独の物質として提供し、著しい殺虫性を有するエステルを製造するための有用な中間体を実現させたのである(RSアルコールを中間体として用いても、著しい殺虫性を有するエステルを単独で得ることはできない。)。このように、従来は分割が不可能とされていたものを単独の物質として提供する行為は創作的価値を有するから、その結果として得られた物質そのものにも新規性を認めるべきである。

したがって、本願発明の化合物(Sアルコール)と引用例記載の化合物(RSアルコール)は、構成及び効果(用途)を異にし、実質的に別異の物質にほかならないから、引用例には本願発明の化合物が開示されているというべきであるとした審決の判断は誤りである。

第三請求の原因の認否、及び、被告の主張

一  請求の原因一ないし三は、認める。

二  同四は争う。審決の認定及び判断は正当であって、審決には原告が主張するような誤りはない。すなわち、

引用例の実施例20b(第一八頁右下欄第三行ないし第一三行)には、RSアルコールの製造法が記載されているが、RSアルコールは、不斉炭素原子の存在により立体的配置のみが相違する二つの化学物質(SアルコールとRアルコール)によって構成されるラセミ体である。したがって、RSアルコールの製造法が記載されているということは、同時に、ラセミ体を構成するSアルコールとRアルコールの製造法が記載されているということにほかならない。

そして、引用例の第八頁左上欄初行ないし左下欄第九行、及び、実施例20c(第一八頁右下欄第一四行ないし第一九頁左上欄第五行)には、RSアルコールが、対応するRSエステル誘導体の製造に使用し得ることも記載されている。この記載は、当然に、SアルコールとRアルコールが、対応するSエステル誘導体とRエステル誘導体を製造するための中間体として有用であることを意味する(Sアルコールの有用性は、単独のSアルコールを取得して検討しなければ確認できないものではない。)。

そうすると、引用例には、RSアルコールの製造法とその有用性のみならず、Sアルコールの製造法とその有用性が記載されていることになるから、Sアルコールが物の発明として開示されているというべきである。しかるに、本願発明はSアルコールという物の発明にほかならないから、本願発明は引用例記載の発明と認められるとした審決の認定判断には何らの誤りも存しない。

この点について、原告は、引用例には単独のSアルコールの製造法はもとよりRSアルコールをラセミ分割することすら記載されていないのみならず、単独のSアルコールの化学式又は物性値すら記載されていないから、引用例には本願発明が当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されているということはできない、と主張する。

しかしながら、引用例に、ラセミ体であるRSアルコールを製造し、それをエステル誘導体の製造に使用することが記載されている以上、当業者ならば、ラセミ体の形でSアルコールを製造し、それをエステル誘導体の製造に使用することは容易になし得る事項である。そして、RSアルコールを用いてエステル誘導体を製造しその後にエステル誘導体を光学分割するか、まずRSアルコールを光学分割しその後にエステル誘導体を製造するかは、当業者が必要に応じて適宜に選択すればよい事項にすぎず(現に、引用例の第七頁左下欄第一六行ないし右下欄初行には、右のいずれの方法も可能であることが明記されている。)、Sアルコールを単独で取得できなければ光学活性的なエステル誘導体を製造し得ないことはないのである。

また、原告は、本願発明はSアルコールを単独の物質として提供し、著しい殺虫性を有するエステルを製造するための中間体を実現させたのであって、従来は分割が不可能とされていたものを単独の物質として提供する行為は創作的価値を有するから、その結果として得られた物質そのものにも新規性を認めるべきである、と主張する。

しかしながら、Sアルコールが、ラセミ体であるRSアルコールを構成する化学物質の一つとして引用例に開示されている以上、RSアルコールを分離精製して単独のSアルコールを取得したとしても、新規な物を創製したことにはならない。また、Sアルコールが著しい殺虫性を有するエステルを製造するための中間体としての用途を有することによって、物の発明である本願発明の構成が変わるわけではないから、原告の右主張は失当である。

第四証拠関係《省略》

理由

第一  請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)は、当事者間に争いがない。

第二  そこで、原告主張の審決取消事由の当否を検討する。

一  《証拠省略》によれば、本願発明の技術的課題(目的)、構成及び効果が左記のように記載されていることが認められる。

1  技術的課題(目的)

本願発明は、光学活性置換ベンジルアルコールに関する(公報第三欄第一〇行及び第一一行)。

ラセミ化合物である(R, S)α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコール(以下「RSアルコール」という。)は公知であるが、(S)α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコール(以下「Sアルコール」という。)又はその製造法を記載した文献は存在せず、不整炭素原子を含有するアルコールを分割する方法も知られていなかった(同第三欄第二〇行ないし第二六行)。

例えば、ある種のRSアルコールを光学活性有機酸と混合し、生じたSアルコールエステルとRアルコールエステルを物理的処理によって分離し、それぞれのエステルを加水分解してSアルコール及びRアルコールを得る方法が知られている。また、RSアルコールを有機ジ酸と結合させて生じたヘミエステルを光学活性塩基と反応させ、生じた二つの光学活性塩基の塩を物理的方法によって分離して、Sアルコールヘミエステルの光学活性塩基との塩、及び、Rアルコールヘミエステルの光学活性塩基との塩を得、これらを酸性化してSアルコールヘミエステル及びRアルコールヘミエステルを遊離させ、次いで、これらのヘミエステルを加水分解してSアルコール及びRアルコールを得るという、複雑な方法も知られている。しかしながら、ラセミ体アルコールを分割するこれらの既知の方法は、中間段階としてエステルの生成を含んでいる。そして、分割の最終段階においてこれらのエステルを加水分解して所望のアルコールを得るのであるが、α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールの場合には、このアルコールのエステルの加水分解を酸性あるいは塩基性媒質中で行うと、所望の分割されたSアルコール及びRアルコールではなく、これらのアルコール減成生成物(特に、3-フェノキシベンズアルデヒド及び2-ヒドロキシー2-(3-フェノキシ)フェニル酢酸)が生じてしまうのであって、Sアルコールの取得が可能なRSアルコールの分割方法は存在しなかった(同第三欄第二七行ないし第四欄第一八行)。

本願発明の技術的課題(目的)は、単独のSアルコールを提供することである。

2  構成

Sアルコールは、本願発明が要旨とする化学式の構造を有するものである(前記手続補正書五枚目第二行ないし下から第四行)。

本願発明の発明者はSアルコールの製造法を完成したが、その特徴は、光学活性中間体エーテルである(1 R, 5S)6, 6-ジメチル-4(R)-〔(S)-シアノ-(3'-フェノキシフェニル)メトキシ〕-3-オキシビシクロ〔3.1.0〕ヘキサン-2-オンを製造することである。このエーテルは、アルコールを分解するときに通常用いられるエステルと異なり、酸性媒質中における加水分解を容易ならしめる構造を有しているので、Sアルコールを好収率で得ることができる(公報第四欄第一九行ないし第三一行)。

3  効果

本願発明は、これまで製造法が知られていなかった非常に活性な殺虫性エステルの製造を可能にしたものである(公報第七欄第一四行ないし第一六行)。

すなわち、Sアルコールは非常に有用な化合物であって、そのシクロプロパンカルボン酸エステルは、対応するRアルコールのエステルよりはるかに大きい殺虫活性を有する。そして、Sアルコールは、例えば1 R, cis-2, 2-ジメチル-3-(2', 2'-ジベロムビニル)シクロプロパン-1-カルボン酸(著しい殺虫活性を有する周知の化合物)とのエステルの製造を、簡単なエステル化のみで可能にさせる(同第六欄第一〇行ないし第二四行)。

二 一方、引用例に審決認定の技術的事項が記載されていることは原告も認めるところであるが、成立に争いない甲第三号証(特許出願公開公報)によれば、引用例記載の発明はピレトリンタイプの合成殺虫剤及びその製造方法等に関するもの(第二頁右下欄第六行ないし第九行)であり、2, 2-ジメチル-3-アルケニルシクロプロパンカルボン酸のエステルによって、高水準の殺虫剤(毒性とノックダウン性の組合わせ)が得られるとの知見に基づいて創製されたもの(第三頁左上欄第一八行ないし右上欄第五行)と認められる。そして、同号証によれば、引用例の第一八頁左下欄第八行以下には実施例20が記載されており、b例(同頁右下欄第三行ないし第一三行)として、審決認定のとおり、3-フェノキシベンズアルデヒドとシアン化カリウムを反応させることによって(±)-(α-シアノ)-3-フェノキシベンジルアルコール(すなわち、RSアルコール)が得られたこと、その光屈折率nはD1.5832であること、右RSアルコールの構造がNMRによって確認されたことが記載されていると認められる。

三  ところで、α-シアノ-3-フェノキシベンジルアルコールは審決にも説示されているとおり一個の不斉炭素原子(不整炭素原子)を有する分子であるが、このような分子は、右旋性の光学活性(直線偏光の偏光面を右又は左へ回転させる性質を旋光性といい、旋光性を有することを光学活性という。)を示すものと左旋性の光学活性を示すものの、一対の光学異性体(光学的対掌体)から成るラセミ体であることは、当業者にとって技術常識に属する事項である。

そして、光学異性体は、一般に、旋光性の方向に差異があるものの、それ以外の物理的化学的性質においては差異がない(ただし、光学異性体が他の旋光性物質と反応する場合は、必ずしも物理的化学的性質において差異がないとはいえない)ことも、当業者にとって技術常識に属する事項である。

したがって、引用例にラセミ体であるRSアルコールが開示されている(しかも、実施例20のbにおいて、実験的な裏付けのある現実的なものとして開示されている)ということは、同時に、同ラセミ体を形成している一対の光学異性体の一方であるSアルコールが開示されているというに等しいといえるから、引用例には本願発明の化合物が開示されているというべきであるとした審決の認定判断は正当である。

この点について、原告は、特許法第二九条第一項第三号の規定にいう「刊行物に記載された」とは、当業者が容易にその実施をすることができる程度に記載されている必要があり、物の発明についていえば、少なくともその物を製造する手掛りが得られる程度の記載を要する、と主張する。

たしかに、特許出願前に頒布された刊行物にある技術的思想が記載されているというためには、特許出願当時の技術水準を基礎として、当業者が刊行物をみるならば特別の思考を要することなく容易にその技術的思想を実施し得る程度に技術的思想の内容が開示されていることが必要であると解される。しかしながら、本願発明が方法の発明であるならばいざ知らず、本願発明は物の発明であるから、物としての同一性を判断するに当たって、これと対比される刊行物の記載には物の構成が開示されておれば十分とすべきであって、さらに進んで、その物を製造する具体的な方法(あるいは、そのような具体的な方法を得る手掛り)まで開示されている必要は必ずしもないというべきである。そして、本件の引用例にラセミ体であるRSアルコールの構成(分子式)が開示されている(しかも、実施例20のbにおいて、実験的な裏付けのある現実的なものとして開示されていることは、前記のとおりである。)ということは、同時に、同ラセミ体を形成している一対の光学異性体の一方であるSアルコール単独の構成(分子式)が開示されているに等しいといえるから、Sアルコール単独の物性値あるいは有用性が開示されていないことを捉えて引用例には本願発明の化合物が開示されていないという原告の主張は失当である。

また、原告は、従来は分割が不可能とされていたものを単独の物質として提供する行為は創作的価値を有するから、その結果として得られた物質そのものに新規性を認めるべきであり、本願発明のSアルコールと引用例記載のRSアルコールは実質的に別異の物質にほかならない、と主張する。

しかしながら、ラセミ体について本件出願前から種々のラセミ分割(光学分割)の方法が行われていたことも、当業者にとって技術常識に属する事項である。したがって、仮にRSアルコールについて本件出願当時は的確なラセミ分割の方法が未だ知られていなかったとしても、ラセミ分割の方法は、Sアルコールをより高純度の形で取得する精製方法の一種に擬せられるものと考えるべきであるから、新規な合成法によってSアルコールを単独の物質として提供する行為は、方法の発明としてならばともかく、物の発明として新規性を有するとすることは相当でないと考えざるを得ない。

四  以上のとおりであるから、本願発明は引用例記載の発明と認められるとした審決の認定及び判断は正当であって、審決には原告が主張するような誤りはない。

第三  よって、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間を定めることについて行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条、第一五八条第二項の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹田稔 裁判官 春日民雄 佐藤修市)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例